あなたが好きな哲学者、思想家は誰ですか?あな
あなたが好きな哲学者、思想家は誰ですか?あなたが好きな哲学者、思想家は誰ですか? ニーチェやパスカルのようなポジションにいる人でもいいですし、
できれば、本を買ってでもその人の言葉や思想に触れたい!
というレベルの人です。
ちなみに、私はパスカルの「パンセ」が好きです。
よろしくお願いします。wiguegrowさん、ご回答ありがとうございます。
確かに、合う・合わないの問題はありますよね。
ただ、パンセは断片集ですから。
パスカルが書き留めていたメモか何かを、
彼の死後に編纂、出版したものだったと聞いてます。
パスカルの死後に出た本で、本人の許可もないですし、
本にするつもりすらなかったのかもしれませんね。
論理破綻しているのは仕方ないかな、と。キェルケゴールですね。高校時代、授業をさぼって学校の図書館で読んでいました。
「死に至る病とは絶望のことである」といい、現実世界でどのような可能性や理想を追求しようと<死>によってもたらされる絶望を回避できないと考え、そして神による救済の可能性のみが信じられるとした。これは従来のキリスト教の、信じることによって救われるという信仰とは異質であり、また世界や歴史全体を記述しようとしたヘーゲル哲学に対し、人間の生にはそれぞれ世界や歴史には還元できない固有の本質があるという見方を示したことが画期的であった。
あとはサルトルですかね。
サルトルの嘔吐とは何か。
嘔吐とはゲシュタルト崩壊である。
実存の上に意味を付与された物が、ある時その意味を離れてなにやら別のものになったような違和感を覚える。
それがロカンタンに起こった嘔吐の真相であり、普通の人は文字(という実存)に違和感を覚える程度だが、彼の場合は日常の生活(という実存)について崩壊が起こり、それが彼を苦しめることになったのだ。
では、なぜ日常が崩壊せねばならなくなったのか。
それは彼が、世の中を実存主義というフィルター(めがね)を通してみたからだろう。
実存主義は毒である。または極度に度の入っためがねである。
それを飲んだものは嫌世に犯されるし、または焦点が合わなくなりくらくらする。
そのフィルター作用の例として、文中では「冒険」を実存主義的に解釈していて、以下のように説明されている(読み取ることが出来る)。
冒険とはロマンに満ち溢れたものであり、夢と希望にあふれている。
これが冒険の定義であり、本質である。
しかし、実際にそれを体験することは出来るのだろうか。
出来ない。
なぜなら、今自分は冒険している、と感じても、それは冒険という定義を感じているだけであり、その定義を演じているだけであり、それは純粋で絶対的なものではないからである。
よって絶対的な冒険なんてない、演じられているだけだ。というのが冒険の実存的解釈で、それによって冒険というものが陳腐な偽者のように思われるのである。
これが「冒険」にとどまらず「喜び」や「憎しみ」といった感情(特権的状態)にも当てはまり、果ては日常全体に当てはまり、世界が輝きを失い、希望も未来も消滅してしまう。
これがロカンタンの陥った、つまりサルトルの堕ち行った実存主義である。
こうなると世の中には価値を見出せない。全ては演じられているだけで偽者なんだから。あーやる気なくなっちゃったなー
となるのが普通。
が、サルトルが素晴しいのはそれを知った上でアンガーシュマンを唱えたことだろう。
ここからが本題です。アンガーシュマンは本来、人間は自由に束縛されている、という意味だが、前述の内容を踏まえ、サルトルが神経症に陥っていたことも考慮すると、実存主義からの脱却という意味合いもあるように思われます。
実存主義に縛られて「無」を否定的に捉えるのではなく、突き放して考え、達観を持って消化することが嘔吐を乗り越えてゆくために必要なことだと考えたのが、サルトルが世界大戦を経験した世代に支持された理由ですね。
私の導き出した解釈は人間はとるに足らない存在だけれどもそのことで虚無主義に陥ってはならない。
「無」である存在を否定的に捉えるのではなく「人間が無の存在」を孤独な決断を持って認める。私が行き続けても今死んでも世界は変化などしない。「存在が無」だからこそ自由な存在だっていうことですよね。("Where we're going, we don't need roads.")。皆様、ありがとうございました。最も暑いご回答を寄こしてくださった方にBAを差し上げます。